長編ドキュメンタリー映画「ひめゆり」 トップ頁へ
 トップ頁新着情報 上映情報自主上映寄せられた声生存者の声予告編監督ブログ

2007年8月15日、16日 新宿区四谷区民ホール

報告 特別上映会 「ひめゆりの風」

 ~Cocco・柴田監督・元ひめゆり学徒と共に~
みんなで観よう 映画『ひめゆり』


トーク4

どんなことがあっても私たちは真実を語る

柴田:Cocco さんが話してくださったように、ひめゆりの皆さんは今はひめゆり平和資料館という資料館があって、その資料館は国立でも県立でもなく自分たちでお金を集めて(作った)。やはり国立になると、言いたい事も言えなくなってしまうんではないか。戦争に行ってしまったときに、特に島袋さんたち師範学校の生徒は、国から授業料や生活費の援助を受 けていたので、戦場動員を拒否できない立場にいた。 だから、みんなに助けてもらうけど国の援助は受けない資料館を作りたい、ということで作って、語ってきたんですね。そこに至るまでには長い道のりがあったと聞いています。どうですか淑子さん。

島袋:そうですね。初めはみんなでまた学校を作ろうということで色々と準備をしていたんですけれど、途中で『ひめゆり学徒展』というものをやりまして、やっぱり学校よりもこれがいいんだ、一家全滅とか、あるいはご両親が亡くなられて、お仏壇も遠い親戚が持っているとか、遺品も何年か後にはもう「従兄弟やはとこ達が預かっているから知らない」でどうにかなってしまうんじゃあないかな、とか色々なことがありました。 やっぱり資料館を建てて、この地球のある限り戦争は絶対にダメ、15歳から19歳までの若い私達のお友達が、本当に生きていたんだという証を残そうということ、色々なことから資料館をたてることになりました。

今監督さんがおっしゃったように国とか、県といったところから援助を受けずに手作りで自分たちで、とは言いましても、各県、北海道から南の沖縄までのたくさんの人のお志を頂きまして建てました。 だから、今でもみんなの資料館だと私たちは言い続けています。でも、今も憲法の問題とか色々出てきていますけれど、どんなことがあっても私たちは真実を語るということで頑張っております。

戦後40年近く語ることをしませんでした

柴田:こうして語れるようになったのはいつ頃ですか、戦後すぐ話せたんですか?

宮城:今資料館の話がでたんですが、もう建ってから18年になります。 18年間正常に運営が出来たことは入館者の皆さんのお力で運営が出来ているのです。 実は20年くらい前まで、東京のひめゆりの同窓会には、600名くらい同窓生がいたんです。その同窓生の方たちが(頑張って資金集めをして)1億円ぽんって送ってくださった。それが大きな支えになりました。それから、全国のみなさんのお力を借りて資料館を建てました。どこにもない資料館と言われているのは、そういうたくさんの方々の支えで出来ている資料館だからです。

私たちはその資料館を建てる前は、戦後40年近く語ることをしませんでした。 それくらい10代で亡くなった学友たちの死はとても重たいのです。私が戦場跡に行ったのも30年後、ひめゆりの塔の慰霊祭に行ったのも戦後30年を過ぎてから、やっといけるようになったんです。これは私ひとりだけではなくて、たくさんの生存者の思いなんです。 それくらい、すごい重いものなんです。10代で人生全てを奪われるということほどむごいものはないんです。

でも、40年経ってたくさんの遺骨を拾いました。その中から友達や先生方が持っていた遺品を手にして、やはりあのことは絶対に忘れてはいけないことだ・・・。やっと40年ぶりに気がつきました。それがきっかけで証言をし、資料館を作る仕事に入ったんです。 だから、40年間ずっと悩んできて。映画の中で語ったのも今から13年前のことですから、思いのたけを語っているのはつい最近なんですね。そういう意味で、やっぱり人の命の重さということは、映画の中でも感じてくださったと思います。

この事を話すのは私たちなんだ

島袋:映像の中にも出てきておりますけど、今でも227名の中の70名近くの人たちが6月18日から19日の朝、未明までに壕を出て行ったままいつ、どこで亡くなったかわからないお友達がいるのです。

それに、私は本当に正直言いますと、怪我をして歩けないお友達を壕に残して出て行ったんです。あの頃は戦争だから仕方がない、軍命令だからしかたがない、 どうせ私も今は生きているけれど、10分後は死んでいるかもしれないとか、そういう思いで重症を負って動けない友達を壕に残して出て行ったのです。

だから、特に自分が結婚をしまして、子どもができて、そういうときに友達のことを思いだし、家族にも話せない、誰にも話せないという時代がありました。

宮城さんが言ったように、友達の朽ちかけた形を失った櫛や筆箱や弁当箱を泥の中から拾い上げたときに、「ごめんなさい。もっと早く来てあげればよかった。 ごめんなさい。」って言いながら、泥まみれになりながらそれを拾ったときからです。 「この事を話すのは私たちなんだ」ということで、ぽつりぽつりと話せるように なりました。

(しばらく静寂)

以上です。


※このホームページ内のテキスト・画像の無断複製・再利用を禁じます。
©プロダクション・エイシア
himeyuri※asia-documentary.com(※を小文字の@に変えてメールを送信してください)